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評論家なんていらない/映画とお笑い

カルチャー

 評論家はなぜ必要なのか?あるいは必要ないのか。

作品と評論家との問題について、顕著に現れる事例がある。

お笑い芸人が映画監督をした時だ。

たとえば、RHYMSTERの宇多丸さんのラジオで語っていたこと。
品川ヒロシ監督の「サンブンノイチ」(木下半太原作の小説を映画化したもの)を取り上げた際、

宇多丸さんは、品川監督は、作品内で窪塚洋介演じる人物に

「自称映画好きは、映画を撮ったこともないくせ、自分以外の人間は映画を見る目が無いと思ってる。他人の意見は右から左。オレは年2回くらいしか映画は見ない。好きな映画は『バックトゥザフューチャー』だ。それをベタ過ぎるとか言うヤツが大嫌いだ!」

という原作にないオリジナルのセリフを追加した点を批判的に指摘した。

要は「品川監督が登場人物のセリフで自称映画好きを批判した」、と宇多丸さんはとらえたわけだ。

「おまえら一回も映画撮ったことねえのに、そんな偉そうに語ってんじゃねえよ」と。

評論家ポジションにいる宇多丸さん的にはこの品川監督の考え方は間違っている、というのが主だった流れ。

「評論家VSクリエイター」という図式。

この手の話は議論が尽きず厄介ですが、加えて、宇多丸さんはこういう自称映画好きへの批判を、お笑い芸人出身の人が映画を撮るとよく行うと指摘する。(具体的には品川さん、松本人志さん、世界のナベアツさん)

ここから本題。

なぜお笑い芸人出身の監督は、こういう「批評家批判」みたいなことをするのか?

まず一般的に見て、映画コンテンツの評価というのは、

①一般大衆に受けているという興行収入をはじめとしたどれくらい売れたかという評価

②映画祭などで入賞や映画評論家による評価(カンヌやアカデミー賞など)

によってなされる。

①と②の評価は必ずしも一致せず、大衆的に人気でも、批評家からの評価はずたぼろとかはよくある話です。またその逆も。

この2つの評価軸はお笑いにも似た構造がある。

①観客からの人気、大衆人気(テレビやネットで人気にな)、つまり視聴率や再生回数

②M-1やキング・オブ・コントなどの賞レースで入賞する

どちらも①の大衆人気の点はあまり違わない。大衆に人気のクリエイター(作品)は、大勢の人に支持されている。

違う点としては、お笑い芸人はここ数十年、批評家を排除してきたような節があることだ。

代表は、M-1グランプリやキングオブコント。プレイするのも芸人なら、審査するのも芸人。

現役の大御所・中堅芸人(+会場のお客さんや視聴者)に審査がされ、そこにお笑い評論家はいない。

見方によっては、非常に排他的な世界とも言えるこのシステムは、芸人でもないやつに評価されてたくない、という芸人側の意見も反映して作られている。

一方、(日本)映画の実情はちがいます。かつて淀川長治、水野晴郎、佐藤忠男といった、有名映画評論家がいて、テレビや雑誌で映画の魅力を、”見るプロ”として語り人気を博した。

コンテンツとも呼ぶべき「映画評論」というものを生み出した映画界と、評論家を排除し自分たち(プレイヤーと観客)だけでやっていくと決めたお笑い界、両者はそもそも、真逆の構造を持っていると言える。

ただ両者には敷居の高さのちがいもある。作るためにはある程度のお金と時間と労力(機材調達、脚本執筆、キャスト、編集エトセトラ)が必要な映画と、(レベルを問わなければ)すぐに始められそうなお笑い。

この敷居の低さゆえにお笑い芸人(志望者ふくめ)の数に比べれば、映像作家の数は圧倒的に少ない。

そしてここ十数年、あらゆるテレビ番組に、芸人が進出してきた。これはいろんな人が言ってることなので、わざわざ大げさに言うことでもないが、芸人よりもより専門的なプレイヤー(学者やスポーツ選手や有名俳優)を除けば、コメンテーターもコンテンツを語るのも、アメトーーク的にすべてが芸人化(○○大好き芸人)して、芸人の枠内に入れることができる。

そして現代、それがさらに拡張され、テレビという枠の外、YouTubeの登場によって一般人でもYouTuberという枠(○○系YouTuber)の中でなんでもできてしまう時代。

これにともなって、誰でも発信できる。今、だれでも評論家になれてしまう。その人の能力によって、評論家なんて肩書は不要だ。

なんだかしかめっ面で、小難しい論を展開する。または、この映画はダメだと(プレイヤーでもないのに)語る。そのすがたは往々にして、高慢に映る。

評論家のようになりたければ、小難しい映画大好きおじさんYouTuberとして活躍した方が、映画について語った方がいい。

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