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あらすじ
映画は、東京都知事の天馬(演・役所広司)が、都の幹部を招集し、東京に原発を誘致する!と宣言するところから始まる。
なぜ東京なのか?
なぜ原発なのか?
原発ってなんのか?
なぜ都知事はそんなことを言い出したのか?
都の幹部たちは、戸惑いながら、都知事と議論を交わしていく。
前半は、密室劇。
この映画は、大部分を都の会議室?らしきところで場面のほとんどが構成され、登場人物の話し合いによってストーリーが展開していく。
いわゆる密室劇、あるいは会話劇である。
複数の人間が、ひとつの空間に閉じこもって、顔を突き合わせるだけで映画が進んでいくのだ。
密室劇の映画と言えば、アメリカの古典映画「十二人の怒れる男」が代表的である。
また日本の映画でいえば、「十二人の怒れる男」にインスパイアされた三谷幸喜脚本の「12人の優しい日本人」(監督は中原俊)、あるいは、「リーガルハイ」の脚本家でも知られる古沢良太が脚本を書いた「キサラギ」が思い浮かんだりする。
顔の濃~い俳優たちが、ひとつの空間に閉じこもって侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論を交わす。
怒ったり笑ったり悲しんだり、感情がむき出しになる。
結論が出たかと思えば、また新たな問題が見つかり、いろんな知恵を出し合って結論を導いてく。
たまらない。
この系列の映画は、なにかと”決”を採りたがる。
手を挙げて! などと全員の意志を確認するのだ。
なにか結論めいたものが出るたびに、この結論に賛成か反対か挙手させたり、匿名のアンケートをとる。
個人的な趣味で言えば、ぼくは密室劇が大好きで、登場人物たちが”決”を取る度に興奮するヘンタイでもある。
本作でも、「決をとりましょう」と会議のメンバーが発言する場面があるが、実際にはほとんどとっていないのがザンネンだった。
ちなみに「シン・ゴジラ」の会議シーンも好き。
日本の諸大問題、詰め込んでみました
ただ「東京原発」がずっと密室での会議ばかりかと言えば、そうではない。
東京都庁で主要人物たちが会議をしているのと、平行して、大量のプルトニウム燃料がお台場へと運ばれてきてしまうのだ。
このプルトニウム燃料、本来ならばフランスから船で福井県の原発へとじかに運ばれるはずだったもの。
しかし、反対派の抗議活動を嫌った政府が、秘密裏にお台場へ持ってきてしまったのだ。
しかも、そのあとは運送用のトラックに積んで陸路で運ぶという。
通常の3倍という高額報酬目当てにやってきた運転手の中村(演・塩見三省)は、新人ドライバーかつアル中で、それまで徹夜で運送していたためにろくに寝ていない。
その状態で、大量のプルトニウム燃料を積んだトラックを福井まで運ぶことになる。
そんな最悪な状況で都内を走るプルトニウム燃料積載トラックを、さらなる最悪が襲う。
ここらへんは観客にも場面を動的に見せるためのエンタメ展開だろうし、この映画を実に単純なエンターテインメント映画にしている。
結末もある種、古典的。
だが同時に、現代日本の風刺に富んでいる。
原発を中心とした日本の諸大問題をエンタメに詰め込んでしまいました、といった感じ。
都の幹部のくせに、原発に関してほとんど無知な会議メンバーたちは、無知な私たち国民を戯画的に描いている。
(ただ立場にある人間にしてはあまりに無知すぎるかもしれない。)
環境局長の泉(演・吉田日出子)を除けば、幹部たちは、全員スーツのおじさんたちであり、女性活躍とは程遠い現場である。
「テレビで言ってた」とか、「CMで言ってた」とかをなにかと枕詞に使う都市計画局長の石川(演・菅原大吉)。
トラックの運転手に代表される過重労働、飲酒運転。
禁煙である会議室での喫煙および頻繁なタバコ休憩。それによる会議の遅延(まあ議論の小休止にもなっているのかもしれんが)。
パソコンを使えるのに紙の書類が山積み、都庁のパソコンは3世代も前のものというIT化の遅れ(展開的にか、後半易々と一人の人間にホームページをハッキングされるというガバガバセキュリティ)。
おじさん上司が部下に「パソコンでHPを見ろ!」とわざわざ電話するシーンは笑えたが、今ではさすがにやりすぎかもしれない。
劇中では日本の情報公開の遅れにも触れられていた。
また現場でなにかとメモを取る笹岡産業労働局長にたいし、「シュレッダーにかけておけ」とメンバーのひとりが発言し、そこには隠蔽なんてものよりもっとやっかいな、保存という概念の欠如した、まずいものは残さない”習慣”のリアリティがあったように思う。
そしてなにより、国(都)の大事が少数の密室で決まってしまうという密室劇の皮肉な構造。
次々と2004年当時から日本にくすぶり続け、その後メディアで叫ばれる問題が出てくるので思わず笑ってしまう。
多少ぼくの考えすぎなとこもあるのかもしれないが、
この映画は日本社会の諸大問題のサラダボールと言えるかもしれない。
“核”心の原発問題
本作の議題の中心である原発。
それだけ、原発推進派、反対派、双方の立場にある登場人物が出てくる。
推進派は都知事の天馬、都知事の秘書の及川(演・徳井優)、ブレーン的な立場の原子力安全委員の松岡(演・益岡徹)。
反対派(あるいは慎重派?)は、副知事の津田(演・段田安則)、環境局長の泉、産業労働局長の笹岡(演・平田満)、政策報道室長の佐伯(演・田山涼成)。
反対派のブレーン的な立場の、東京大学教授の榎本(綾田俊樹)
そして日和見ですぐ意見がころころ変わる、石川都市計画局長(菅原大吉)、大野財務局長(岸辺一徳)。
反対派の学者VS賛成派の国、言い分はどちらにも一理ある。
原発でできた電気を一番使ってるのは、人口の集中している東京なんだから、その中心地に原発作って何がわるい!という都知事の暴論も気持ちがいい。
おまけにこんな恩恵ももたらすんだ!というワイドナショーばりのフリップめくりは、皮肉が効いていた。
専門家たちも、原発は安全だ、いや危険だ、と同じ分野の人間でもとる立場・思想によって
結論が変わる。採用するデータも変わる。
情報社会が今よりも進んでいなかった2004年の映画でも、それは感じた。
この映画だって、完全にフェアな立場にあるか、と言えばそうではないだろう。
映画もかつてそうであったように、メディアはプロパガンダに使われてきた歴史がある。
アメリカメディアはソ連を批判し、ソ連はアメリカを批判する。
それが原発反対派か、原発賛成派かに変わっただけである。
作り手の意志が少なからず反映されてしまう。
実際、ネット上には「映画「東京原発」にみられる間違い」と称した文章が公開されている。
この団体の言い分が正しいのか、専門的知識もなんら持ち合わせていないぼくには分からない。
ぼく個人がどちら側の人間かと言われれば、どちらの人間でもない。
原子力エネルギーがもたらした恩恵もある程度はたしかにあって、少なからず享受している。しかし、甚大な損害も、この国の人間として分かっている。
その上でどうすべきなのか悩んでいる人間、と言うことは間違いない。
3・11から11年、さらにソ連とウクライナの問題によって、チェルノブイリに再び暗雲が立ち込めている。
原発によってもたらされる経済効果による経済成長か、脱成長、そこに住む命か。
「東京原発」は、原発問題に悩むための入り口としては優れたエンタメ映画かもしれない。
スタッフについて
主演俳優の役所広司は知っているが、監督の名前はよく知らない。
山川元(やまかわげん)。
google先生に聞いてみても、どうやら代表作こそがこの「東京原発」であるらしく、おまけにここ20年は、一般映画を発表していない。
記事を発見した。
内容が内容だけにか、撮影から公開まで2年もかかったらしい。
しかも、監督曰く「やっと公開しても東京では2館くらいしか上映されずに、鳴かず飛ばずでした。」
とのこと。
俳優の顔ぶれはずいぶんと豪華だが、どんな裏事情があったのだろう?
余談
この映画のメッセージを象徴する、
「人間は過去のことはすぐに忘れる。終わったことには関心がない」
というセリフがあった。
これに似たセリフを過去に聞いたことがある。
思い出してみると、相棒の最初の映画での、右京さんのセリフだった。
「人は忘れます。確かに今はこの事件のことは心に焼きついています。ですが明日また別の事件が起き、次の週にまた違う事件が起きて、また再び忘れてしまう。」 (「相棒 -劇場版- 絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン」より)
人の記憶がなくなるのなら、外部に留めておけばいい。
日記でもnoteでも、twittterでも。
忘れてしまったことを思い出すために、過ぎてしまったことを知るために、残すことに意味があると思う。
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