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ジブリと手塚治虫~スランプ期の手塚と鈴木敏夫の関係~

アニメ・マンガ

1973年 暗黒期の手塚治虫

1946年に漫画家としてデビューして以来、『新宝島』『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と発表していた”漫画の神様”手塚治虫。

よく言われる話だが、手塚治虫にはスランプだった時期がある。

特に1968年頃から1973年にかけてのスランプは、有名な時期で、
当時(60年代中頃から70年代初頭にかけて)は、

カムイ伝(1964-1971)
巨人の星(1966-1971)
明日のジョー(1968-1973)
ゴルゴ13(1968-現在)

などが、けん引する劇画ブーム(1966~)の只中であり、この隆盛にともない

「手塚治虫は終わった」

などと言われるようになった。

そんな、手塚治虫の暗黒時代の末尾を飾る出来事に、
「虫プロ」および子会社「虫プロ商事」の倒産がある。(1973年)

そもそも虫プロとは、1961年に創設された手塚治虫のアニメ制作会社で、
京アニだのMAPPAだの、ufotableだのの走りである。

その実績は多大であり、1963年に日本初の「本格30分枠」の連続テレビアニメとして「鉄腕アトム」を制作し、
出崎統や、のちに「ガンダム」をつくる富野由悠季ら、そうそうたる人材も輩出した、
日本アニメの時代を切り開いたプロダクションであった。

しかし1970年代に入ると、クオリティにこだわる手塚治虫の滅茶苦茶な生産体制に加え、虫プロ他にも多くのテレビアニメの制作プロダクションが設立されたことによって、受注競争に敗北(テレビ局からのアニメの受注が減少)

その他、

・人件費の高騰
・版権、出版、営業の部門を持つ子会社「虫プロ商事」の経営悪化と労働争議(ちなみに虫プロ本体の経営状態も悪化中)
・劇場用作品『哀しみのベラドンナ』の興行的な失敗

などを原因として、資金繰りが急激に悪化することになった。

8月にまず「虫プロ商事」が倒産。
続いて11月には虫プロ本体が、3億5千万円の負債を抱えて倒産してしまうのであった。

1973年8月22日虫プロ商事倒産
1973年11月1日虫プロ倒産

(手塚治虫公式年譜(1970年代)より1970年代|年譜|手塚治虫について|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL)


1970年代当時、手塚治虫はすでに言わずと知れたマンガの神様であったが、その内実は惨たんたる状況でもあったのである。

そんな時代に、手塚治虫と出会った男がいる。

のちにスタジオジブリのプロデューサーになった、鈴木敏夫である。

鈴木敏夫とは


「ジブリは知ってるしもちろん宮崎駿も知ってるけども、鈴木敏夫は知らない」という人も多い。
知ってる人は知ってるし、知らない人は全然知らない。

だが、ジブリの最重要人物のひとりである。

富野由悠季は鈴木敏夫についてこう語っている。

「宮崎駿は1人だったらオスカーなんか絶対取れませんよ。個人的に知っているから言えるんですが。彼は鈴木敏夫と組んだからオスカーが取れた。組んだ瞬間僕は「絶対半年後に別れる。こんな違うのにうまくいくわけがない」と思いました。知ってる人はみんなそう思ったんです。

(中略)

宮崎さんが公衆の面前で「鈴木がいてくれて助かったんだよね」と本人は絶対言いません。どう考えてもあの人、1人では何もできなかったんです。「ルパン三世」レベルでおしまいだったかもしれない。本人に言ってもいいです、知り合いだから。」

(「東京コンテンツマーケット2008 トークセッション」)


ジブリ作品の仕掛人で、世界へジブリを売り出した男。剛腕P。ジブリの黒幕。

基本的にジブリは、宮崎駿・鈴木敏夫・高畑勲の3人でまわっていた。

ジブリと言えば、良くも悪くもこの3人。

ワンピースで例えると、2年前時点の黄猿、赤犬、青雉みたいな。

そして徳間書店の徳間康快社長がセンゴク元帥、といった感じ(徳間社長もまた、彼がいなければ、そもそものジブリをつくる元出がなかったかもしれないくらい重要人物)。

まあ高畑勲にかぎっては、ジブリ設立の言い出しっぺのくせに、ジブリに所属したり役員になったりしたことはないので、海軍とはちょっとちがうかもしれない。

兎にも角にも、ジブリは設立以来、宮崎・高畑の両輪が作品をつくり、鈴木が製作全体の統括をして世に売り出す、という体制をとってきたわけで。

鈴木敏夫なくして、今のジブリはないのである。

鈴木敏夫と手塚治虫『刑事もどき』


手塚暗黒期の1970年代、この時期の鈴木敏夫はプロデューサーではなく、徳間書店の編集者であった。

”編集者”鈴木敏夫の遍歴(ジブリ設立以前)
1972年 徳間書店入社

『アサヒ芸能』特集部に配属。

成人向け劇画雑誌『コミック&コミック』編集部に異動。

自ら志願して、『テレビランド』編集部に異動。

『アニメージュ』編集部に異動 最終的には2代目編集長に就任。

1989年 徳間書店退社

慶応大学卒業後、徳間書店に入社した鈴木敏夫は、まず『アサヒ芸能』特集部に配属される。

wikiによると、雑誌「アサヒ芸能」は、

 主に芸能人のスキャンダラスな記事を書く、いわゆるゴシップ誌である。ヤクザ、エロとスキャンダルが売り物で、購読者の90%近くが男性であり、サラリーマン、自営業者などの既婚者が多いといわれる。


その後、鈴木は、成人向け劇画雑誌『コミック&コミック』編集部に所属する事になる。1973年のことだ。

鈴木はこの漫画雑誌に配属されたことで、手塚治虫と出会う。

手塚との出会いについて、鈴木はのちにこう語っている。

いやー僕ね手塚さんにお目にかかったのは、会社入って2年目。徳間書店というところで漫画雑誌をやることになって。
そこの漫画雑誌「コミック&コミック」っていうんですけど、色んな作家さんに描いていただきました。で、あるとき手塚さんがやることになるんですよ。
ご承知のように手塚さんって、連載を7本抱えていて、毎日違う漫画描くみたいなかんじでしょ?
原稿がとれるかとれないかで大騒ぎで。

編集者が集まる部屋があって、そこで待ってて、とりあえず1回目の原稿が今日ちゃんと描いてもらえるかっていう日になぜか僕はすんなりと遅れることなく描いてくれて。
皆さん苦労してたんですけど。


(鈴木敏夫のジブリ汗まみれ:鈴木さんが語る『素顔の手塚治虫』 2015年4月15日放送分)※鈴木敏夫のジブリ汗まみれを文字起こしするブログ より


鈴木が担当した手塚の作品『刑事もどき』は
「コミック&コミック」に、「エムレット」「鹿の角」に計2回掲載された短編作品である。

『刑事もどき』
・「エムレット」
  昭和48(1973)年10月3日号
・「鹿の角」
  昭和49(1974)年1月23日号

手塚作品だが、知名度のある作品と言うわけではなく、雑誌掲載後、単独での単行本化もなく、いくつかの短編集・全集に収められているのみとなっている。
『刑事もどき』が収められた短篇集『ショート・アラベスク』↓

ここで一つ押さえておきたいのは、スランプ期とはいっても、当時の手塚は多数の連載を抱えていたことである。

つまり、並みのマンガ家よりも多忙なのである。

当時、手塚が同時期に連載していた作品を見ると
『鳥人大系』(1971-1975)
『ブッダ』(1972-1983)
『火の鳥 乱世編』(1973/8-)(雑誌『COM』版、のちに『COM』の休載に伴い連載は中断)
がある。

これは作品のアイデアが尽きるようないわゆるスランプではなく、「周囲からオワコンと言われてる時期」と言っていいかもしれない。

だがしかし、オワコンなのに連載が多いのには、ある程度のからくりがある。

鈴木敏夫による話。

原稿料どうしますか?って(笑)
そうしたら手塚さんが「原稿料はいくらでもいいよ」って言って。
当時の原稿料は偉い作家さんで1枚7万円から8万円。
その時にいくらでもいいよ、って言われたんで困っちゃって。
「だからといって1万円というわけにはいかないでしょ?」といったら「いいんだよ、それで」って。
「どうしてですか?」ときいたら、結果的にこれが色んなことを教えてもらう大きなひとつになるんですけど、
「僕が原稿料高かったら、注文来なくなるんだよ。でも安ければ来るだろう」って。
これは目から鱗でしたよね。
「第一、僕の漫画は単行本にすれば売れるんだから、関係ないんだよ」って言われて。
それで手塚さんって面白いなーと思って、それでお腹の中に溜めてあったことをつい口に出しちゃうんです。

(鈴木敏夫のジブリ汗まみれ:鈴木さんが語る『素顔の手塚治虫』 2015年4月15日放送分より)※鈴木敏夫のジブリ汗まみれを文字起こしするブログ より抜粋


おそらく、大抵の作家のように人気になるにしたがって原稿料を高値にしていれば、人気のなくなっていた当時の手塚治虫はとっくに仕事が来なくなっていただろう。

加えて、もともと『刑事もどき』は単発の予定であったが、
2回目を掲載することになった経緯についても、鈴木敏夫がこう語っている。

その日、原稿をいただいて会社に戻ったのが朝の5時半とか6時くらい。
7時に印刷所が取りに来るんですよ。そこへ手塚さんから電話がかかってきて、「先程ありがとうございます」っていったら先生が「ちょっと直したいところがあるんだ」と(笑)
「直したいって言われたって、もう無理です。
入稿しないと真っ白になっちゃうんで勘弁してくださいよ」と。
それで電話で押し問答なんですよ。
正確にどのくらいやったかは忘れちゃったんですけど、先生が「わかった。今回はしょうがない」と。
かなり押し問答やったことは覚えてるんですよね。
それで「だったらもう一回描かせて下さい」と。
僕としてはたまげた思い出があるんです。何なんだこの人は!と思って。

(「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ:鈴木さんが語る『素顔の手塚治虫』 2015年4月15日放送分」)※(鈴木敏夫のジブリ汗まみれを文字起こしするブログ」より


手塚なりの信条のようなものが、彼の連載の膨大さを支えていたわけである。

『刑事もどき』と暗黒期からの脱出

『刑事もどき』掲載のタイミングは、なんとも不思議である。

まず第1回が掲載された1973年10月というのは、もうすぐ虫プロ倒産という最悪なタイミングである。

暗黒期が極限にまで達した瞬間と言っていい。
そして虫プロ倒産後すぐ、遂に手塚はスランプ脱出の転機を迎える。

大ヒット作『ブラックジャック』(1973/11/19-1983/10/14)の連載開始である。

ブラック・ジャック 1
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11月からの短期集中連載の予定で、当時の編集長は「手塚の死に水をとってやる」という覚悟で連載を決めたという。

それくらい当時の手塚は、期待されていなかったのだ。

手塚は、

1973/11/19 ブラック・ジャック登場
1973/11/26 海のストレンジャー
1973/12/3 ミユキとベン
1973/12/10 アナフィラキシー
1973/12/17 人間鳥
1973/12/24 雪の夜ばなし

と週刊連載でブラックジャックを発表していく。

そして明くる1974年1月、『刑事もどき』の2作目「鹿の角」が掲載されるわけだ。

要は、『刑事もどき』という作品はブラックジャック連載開始の前と後に掲載されたことになる。

ただ、ブラックジャックも連載開始後すぐに人気でが出たわけではないため、厳密に言えば依然として”スランプ期”ではあったわけだが、

それでも、ブラックジャックの前と後では印象が異なって見える。

同時に、手塚治虫をオワコンにした劇画ブームも、労働者階級や学生運動と連動していたために学生運動が下火なるにつれ、終焉していく。

劇画ブームVS手塚治虫は、ある種、手塚の粘り勝ちと言えるかもしれない。

そしてそのあいだには、手塚治虫とのちのジブリプロデューサーの邂逅という、数奇な出来事があったというわけである。

参考文献

鈴木敏夫『仕事道楽』
鈴木敏夫『風に吹かれて』
鈴木敏夫『ジブリの哲学』

参考URL
手塚治虫公式サイト 刑事もどき
手塚治虫のすべて 刑事もどき
NHK 知られざる手塚治虫の素顔

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