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村上春樹『スプートニックの恋人』にんじんと犬/交代する主人公【考察】

カルチャー

主人公の交代

「5」の章の時点で、ぼくは「これはすみれの物語であり、ぼくの物語ではない」と述べている。

ここを見ればわかるように、途中まですみれこそが物語の軸、主人公であった。

しかし、主人公すみれは途中で消えてしまう。

「14」の章で「ぼくは明日になれば飛行機に乗って東京に戻る。」というセリフを境に、
それまで過去を語っていたぼくの「語り」が、現在に追いている。

このことは、それまでぼくによって語られていた「すみれの物語」が、この時点で終わってしまったことを指している。

つまり、にんじんの登場よりも前にぼくが語った「すみれの物語」は、すで語り終えていることなる。

過去を語り終えた語り手は、今を語らなくてはならない。
消えたすみれに代わり、ぼくは物語の主人公となり、ぼくの物語がげんざい進行形で語られることになる。

ここに主人公の交代と呼べる現象が起きているのだ。

「ぼく」とにんじんの共通点・家庭不和

すみれに代わってぼくが主人公となり、ストーリーはぼくとにんじんの関係を中心にして展開される。

そしてぼくの教え子でありガールフレンドの子どもである「にんじん」はぼくとの共通点が多い。

たとえば家族構成

どちらも、父親と母親、その下に二人の子どもという構成。
(ぼくの方は姉だが、にんじんの兄弟については性別・年齢ともに不明)。

この点は「すみれ」や「ミュウ」とも同一だが、
(すみれには父親と義母、それに腹違いの弟がおり、ミュウには韓国人の父に日本人の母と弟がいる。)
「ぼく」と「にんじん」は家族との関係性も似ている。

たとえば、
父親が日曜日に不在(ぼくの父親はゴルフで、にんじんの父親は仕事またはゴルフで不在)。

ぼくは「家族の誰とも気持ちが通じあわなかった」ために家族と親しく話をしたことがなく、
にんじんもまた「ほとんど何も話さない」という母親(「ガールフレンド」)の証言を考えると、気持ちが通じ合っていない

どちらも、家族に心を閉ざしてしまっている。

ギリシャから帰国したぼくは、「15」の章でガールフレンドに電話で呼び出される。
そして呼び出された先で、にんじんが起こした万引き事件の対処をすることになる。
スーパーマーケットの保安室に行くと、そこにはガールフレンドとにんじん、そして「中村」という警備員がいた。

にんじんが万引きしたものの内訳は、シャープペンシル一五本、コンパス八個、ホッチキス八個である。

警備員の中村はぼくたちに対し、厳しい態度をとる。
彼は、にんじんの万引きの動機についてこう発言する。

 おどされたわけじゃありません。必要のためでもなく、いっときの出来心でもない。お金のためでもない――お母さんに話をきくと、十分すぎるくらいのおこづかいをもらってます。ということは、確信犯です。盗むために盗んでいるんです。つまりこの子は明らかに『問題』を抱えているんです。

と主張する。

そしてぼくにその兆候はなかったのか、と尋ねる。
ぼくは万引きというのは「精神的な微妙な歪み」から来ており、そういう「歪み」は外見からは予測しにくいと話す。

この「精神的な微妙な歪み」の原因が、ぼくとガールフレンドの不倫関係を含んだ家庭不和である可能性が高い。

そして、中村が言う「『問題』」、という言葉の意図は、ぼくとガールフレンドの関係を鋭く見透かした上での発言と言える。

当初の中村は、にんじんの犯行動機について、「ただ楽しみで盗んでいるか、あるいは学校で友達に売るため」、つまり快楽と金銭のためだと主張していた。

しかしその後、先に引用したように、「お金のためでもな」くにんじんが「『問題』を抱えている」ために万引きをしたという主張へ変化していた。
この短時間で中村が意見を変えたのは、ぼくに対して「ひっかかり」を感じたからだろう。

ぼくとの別れ際、警備員・中村は、「最後にひとつ」と切り出して次のように話す。

先生を見ているとどうも何か釈然としないところがあるんですよ。若くて背が高くて、感じがよくて、きれいに日焼けして、理路整然としている。おっしゃることもいちいちもっともだ。きっと父兄の受けもいいんでしょうね。

しかし何かが「胸にひっかかるんです」と言う。
何がひっかかるのかは中村自身にもわからない。

この発言によって、「ぼく」という人物は他人から見ると、

・容姿が良く
・コミュニケーション能力もあり
・健康的かつ理性的

という、極めて模範的な人物に見えることがわかる。

中村は、そんな世間的に”正しく見える”「ぼく」が、不倫をしていることが「胸にひっかかる」と無意識的に感じているのだ。

実は、中村が考えるにんじんが万引きした理由は
「ただ楽しみで盗んでいるか、あるいは学校で友達に売るため」だという主張から

「お金のためでもな」く、にんじんが「『問題』を抱えている」ために万引したと
主張が変化している。

これは、ぼくと会話するうち、「ぼく」という人物ににんじんが抱える「『問題』」の一端を感じとったからではないかだろう。

にんじんにとって「ぼく」=父親

ぼくとにんじんの家族構成は似ていて、しかも家庭不和という点も一致していると書いた。
家庭環境は近くても、幼少期のぼくは万引きなどの犯罪行為には走らなかった。

それはなぜか?

それは、ぼくに”心が通じ合う相手”「犬」がいたからだ。

万引き事件を収めてス―パーを出たあと、ぼくはにんじんに4つの話をした。

①友達(すみれ)がギリシャの小さな島で行方不明になったこと。
②自分がかつてどこかの町に自分の「本物の家族が住んでい」るのをよく想像したこと
③気持ちを伝えあうことができた雑種だが「頭の良い犬」が小学五年生の時にトラックにはねられて死んだこと
④ひとりぼっちでいることが「ときとして、ものすごくさびしいことなんだ」と感じられること。

そして、最後ににんじんがもうひとつ盗んでいた保管庫の鍵を川に捨てる。

この場面からは、

ぼくとの交流を通して、にんじんは少なからず救われたこと
・ぼくが万引きなどの犯罪に走らなかった理由
・「ぼく」という存在が、にんじんにとって初めて気持ちの通じあう相手となったこと


がわかる。

というのは、

このにんじんはまったく返事をしない一方的な4つの話をして、
保管庫の鍵を捨てたあと、
にんじんは「少しまとも」な顔へと変化を見せる。

ここから、ぼくとの交流を通して、にんじんは少なからず救われていることになる。

また、ぼくが幼少期に万引きなどの犯罪に走らなかった理由もわかる。
それは、ぼくに「気持ちの伝えあうことができた」飼い犬がいたということだ。

ぼくがにんじんに話した「頭の良い犬」の話によると、
ぼくが愛犬を事故で失うのは小学五年生のこと。
にんじんは現在、小学四年生。
つまり、ぼくがにんじんの歳であった頃(小学四年生)には、まだ犬は生きていたことになる。

逆に考えると、
にんじんには、これまでぼくにとっての犬のような「気持ちの伝えあうことができ」る相手が、いなかったことになる。

もしかるすと、犬がいなければ、ぼくもにんじんと同じように万引きをしていたかもしれない。

ではなぜ、「ぼく」が、にんじんにとって初めて気持ちの通じあう相手ということになるのか?

万引きの原因が家庭不和である以上、ぼくは母親の不倫相手という家庭不和に加担する加害者ということなる。

しかし、ぼくはにんじんを傷つけてはいない。むしろにんじんを「少しまとも」な表情へと救っている。

なぜぼくはにんじんを救えたのか。

それは、似た境遇にある「ぼく」がかつてどこかの町に自分の「本物の家族が住んでい」るのをよく想像したと話したように、
にんじんもまたどこかに「本物の家族」がいることを想像したからではないか?

にんじんが、ぼくが母親の不倫相手だと気づいていたかは分からない。

しかし、
自分には本当の親がいるのではないかとよく想像する子どもがいたとして、
自分が悪いことしたとき、母親がまっさきに母親が呼んだ相手が、
父親ではなく担任の教師であった時
子どもはそこに、「本物の家族」、自分の本当の父親を見はしないだろうか。

その可能性があればこそ、ぼくがにんじんに「自分はもらい子ではないか」と想像した過去を語る意味が生まれてくる。

ミュウとすみれが母娘関係だとよくが指摘されるように、
ぼくとにんじんにも疑似的な父子関係が成立しているのだ。

ただ、この父子関係は、あくまでもにんじんから見た場合に過ぎない。
ぼくから見れば、にんじんが自分の子ではないことははっきりしている。

にんじんの思いは、すみれからミュウへの思いと同様に、叶わない片思いのようなものだ。

にんじん=犬

ぼくの視点からにんじんを見ると、死んでしまった飼い犬との関係に近い。

にんじんが盗んでいた保管庫の鍵を、ぼくが川に捨てる場面で、こんな描写がある。
にんじんの手の感触について記述だ。

ぼくが手を差し出すと、にんじんはその手をとった。ぼくは手のひらの中のにんじんの小さなほっそりした手の感触を感じた。それはずっと昔にどこかで――どこだろう――経験したことのある感触だった。ぼくはその手を握ったまま、彼の家まで歩いた。

このあと、ぼくとにんじんは先に帰っていたガールフレンドと会い、ぼくは彼女に別れを告げる。

それ以降、ガールフレンドとの不倫関係は終わり、翌年にんじんは小学五年生となり、担任から外れる。

だがクラスの担任から離れても思い出されるほど、この時のにんじんの手の感触は、ぼくの中に残っている。

では、引用した文章にある「経験したことのある感触」とは、いつどこでの経験を指しているのだろう?

「5」の章でのすみれの引っ越しをぼくが手伝った日だとする考え方もある。

そこでは、すみれの手についてこう語られている。

すみれはなにも言わずにぼくの手をとって、そっと握った。やわらかい小さな手で、少しだけ汗ばんでいた

確かに、この体験の直後、ぼくはすみれに対して強い性的欲求を感じており、ぼくのすみれへの気持ちが最も高まる場面であったと言える。

しかしこの見方には少なからず矛盾がある。

たとえば、すみれの引っ越しを手伝ったのは、ぼくがギリシャに行く直前(七月)のことであり「ずっと昔にどこかで」というほどの年月は経過していない。

また、にんじんの手は「小さなほっそりした手」であり、すみれの手は「やわらかい小さな手」と異なった描写なのも気になる。

では、「ずっと昔に」ぼくが「小さなほっそりした手」を経験できるのはどこか。

それが、かつての犬との関係である


25歳になるぼくは、犬を亡くしてから15年以上経過しており、十分「ずっと昔」のことだと言える。

にんじんをかつて亡くした犬と重ねているのだ。

さらに、「5」の章ですみれは、彼女の方からぼくの手をとって握っているが、
にんじんの場合には、ぼくが先に手を差し出し、その手をにんじんがとるという形になっている。

ここで思い出されるのが「一度何かを教えれば、いつまでも覚えていた」というぼくと飼い犬の関係。

犬に教えることの筆頭といえば、お手であり、それはぼくが差し出す手の上に犬が手をおく、という動きになるはずだ。

そうでなくても、ぼくが求めたことに犬が応える、ぼくと犬はそんな関係性にあったと考えられる。

ぼくの差し出した手の上に犬が手を置く。ぼくの差し出した手をにんじんがとる。ぼくの求めに応えるこの図式はよく似て感じられるだろう。

それは決して主従関係という図式ではなく、
ぼくの中では、信頼しあう(「気持ちの通じあう」)経験となったはずだ。

にんじんにとってぼくは「本物の家族」
ぼくにとってにんじんは「犬」
そんな「気持ちの通じあう相手」と位置付けられる。

この図式でとらえると、双方の心が通じあい、
それまで閉じられていたにんじんの心が開かれることに納得がいく。

だからぼくは、にんじんが自分のことを「理解し、受け入れてくれたのだ。赦してさえくれたのだ」と思うことができる。

そして、にんじんの心が開くことで、
すみれの失踪によって「閉じられ」ていた物語もまた、開く方向へ示されてる

この記事のつづき
村上春樹『スプートニクの恋人』「真四角」な場所から「まっ四角」な場所へ/記号と象徴【考察】

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