記事内に商品プロモーションを含む場合があります

『スプートニクの恋人』で村上春樹が捨てようとしたもの(エレベーター/井戸/自〇/羊)【考察】

カルチャー

 前回の初級編では、考察というより時系列や作品舞台の検証をしました。

 そこで今回の中級編では、より作品の内容に踏み込んだ考察をしていきます。

『スプートニクの恋人』について、作者・村上春樹は次のように述べていました。

いくつかの技術的な可能性を自分なりに追求してみたかった。何をうまく捨てることができて、そのかわりに何を身につけられるか、そのへんの出し入れを実践的に確認してみたかったわけだ――文体的なレベルにおいても、また物語的なレベルにおいても。

村上春樹「改題 『国境の南、太陽の西』『スプートニクの恋人』 中編小説の持つ意味」(『村上春樹全作品1990~2000②』より)

 そして、そのような「文章上の実験はおおむね所期の目的を達成した」と綴っています。

 村上春樹は何を「うまく捨て」ようとしたのでしょう?

考察していきましょう~。

 ※この記事はネタバレを含む考察記事です。

いろいろ”捨てられた”形跡がある

 村上作品には、「こちら側」と「あちら側」というモチーフがよく登場します。

 最新作の『街とその不確かな壁』でも登場してました。

 ほんとにこの対立した構造を繰り返し用いています。

 本作『スプートニクの恋人』もこの点は例外でなく、ヒロイン「すみれ」は「ギリシャの島」で「あちら側」へと姿を消します。

 この「こちら側」と「あちら側」という構造はおなじです。

 ただ、本作にはそれ以外にも過去作を連想させる単語、あるいはモチーフが出てきます。

 「エレベーター」
 「井戸」
 「自殺」
 「羊」です。

 そしてこの4つが、作中で捨てられた形跡があるのです。

捨てようとしたもの1「エレベーター」

 過去作で「エレベーター」が登場する作品に、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』があります。

 4作目の長編で、「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」という2つの世界で、それぞれ「私」と「僕」という二人の語り手よって交互に物語が展開していきます。

 この作品は、「ハードボイルド・ワンダーランド」側の「私」による、

「エレベーターはきわめて緩慢な速度で上昇をつづけていた」

という書き出しからはじまります。

 ここにエレベーターが登場します。

 この時、語り手「私」が乗り込んだエレベーターは、
 ・こぢんまりとしたオフィスぐらいの広さ
 ・新品の棺桶のように清潔
 ・停まっているのか、動いているのかもわからないくらい静か

 という摩訶不思議なエレベーターでした。

 印象的なかたちでエレベーターが登場しているのです。

 では『スプートニクの恋人』では「エレベーター」がどう登場したのか?

 ギリシャの島にいるミュウに呼ばれて、主人公の「ぼく」は日本からギリシャの島へ行きます。
 その途中でフェリーに乗ることに。
 ぼくは一緒にフェリーに乗っていた現地の女性に、
 「フェリーが満員ということはないですか?」と尋ねています。

 すると女性が

 「たとえ満員でもひとりくらいなんとでもなるわよ」「エレベーターじゃないんだから」

 と答えます。

 ここに「エレベーター」が「じゃない」と否定されるわけです。

捨てようとしたもの2「井戸」/「野井戸」

 次に「井戸」あるいは「野井戸」の否定です。

 井戸は、エレベーターよりも、頻繁に村上作品に登場するモチーフです。

 たとえば、デビュー作の『風の歌を聴け』
 この作品の登場人物「デレク・ハートフィールド」が書いた小説のタイトルは「火星の井戸」です。

 さらに『ノルウェイの森』ではヒロイン「直子」が語り手「僕」に「野井戸」について語っています。↓

「誰にもその井戸を見つけることはできないの。このへんの何処かにあることは確かなんだけれど」
「二年か三年に一度くらい」のペースで人がその「野井戸」に落ちてしまう。

 さらに『ねじまき鳥クロニクル』でも、主人公の岡田亨が妻が失踪したショックで、近所にある枯れ井戸の中で考え事をし、井戸から出られなくなる場面があります。

 このように、主要作品には、必ずと言っていいほど、井戸が登場するわけです。

 では『スプートニク』で井戸はどう扱われているのでしょうか?

 ギリシャの島に到着した「ぼく」は、ミュウからすみれの失踪したことを聞きます。
 そのなかで、「ぼく」がすみれが帰らない理由について述べるなかで井戸が出てきます。

 「歩いていて野井戸に落ちて、そこで助けを待っているのかもしれない」
 「あるいは誰かに無理に連れ去られたのかもしれない」
 「殺されて埋められたのかもしれない」

 村上の過去作に触れていない状態で読んでいると、行方不明者の捜索先として「井戸」というのは、いささか唐突です。

 さらに「ぼく」は、島の警察署を訪ねて、警官に「井戸はどうですか」とも質問しています。

 すると警官は、
 なぜ井戸なのか?という疑問は持たずに

 「この島では誰も井戸を掘りません」

 ときっぱりと否定してきます。
 なぜ?? 井戸あるかもしれないじゃん!というツッコミを頭から振り払い、村上作品であることを踏まえると、

  好きな女の子が井戸に落ちて助けを待っているかもしれないという「ぼく」は、

 ・『ノルウェイの森』直子の、数年に一度、人が野井戸に落ちてしまうという話
 ・『ねじまき鳥クロニクル』「僕」が、井戸で考え事していて出られなくなる展開


 を思わせます。

 先ほど引用した「あるいは誰かに無理に連れ去られたのかもしれない。殺されて埋められたのかもしれない」というのも、

 『ねじまき鳥クロニクル』で見られた
 ・「僕」が妻のクミコをワタヤ・ノボルから取り返す展開
 ・蒙古兵に捕まった間宮中尉の残酷な体験

という暴力的な展開が連想されます。

だがそれらは、「誰も井戸を掘らない」という警官の言葉で否定されてしまうわけです。

「エレベーター」「井戸」を捨てた意味

 ここに「エレベーター」、「井戸」を否定している、つまり捨てていると考えられるわけです。

 過去作では、
 物語を始めたエレベーター。
 物語を展開させてきた井戸。
 
 大きな役割を担った2つが、「ぼく」がギリシャの島へ行く間に捨てられている。

 意図的に、これまで作品で用いられてきたモチーフを排除しています

 これが文字通り、「うまく捨て」る意味ではないでしょうか。

捨てようとしたもの3「自殺」

 3つ目は「自殺」です。
 
 これまで挙げた2つは物質でしたが、3つ目は、自殺という行為です。

 「ぼく」が、すみれが「井戸」の中から助けを求めているかもと述べた場面に続けて、ミュウがこう述べています。

 「すみれが、つまり……どこかで自殺をしたとは考えられない?」

 「自殺」と聞いて思い浮かぶ村上作品(長編)でいうと

 ・『風の歌を聴け』でエンパイア・ステート・ビルから投身自殺する「デレク・ハートフィールド」

 ・鼠三部作(『風の歌を聴け』、『一九七三年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』)の「鼠」

 ・『ノルウェイの森』の「キズキ」「直子」

 などなど。

 主人公の周囲の人物が自殺する展開はよくあるパターンです。

 しかしやはりここでも、『スプートニク』の「ぼく」は、

自殺をする可能性がまったくないとは言いきれません。でももしここですみれが自殺しようと決心したとしたら、必ずメッセージを残します。こんな風にすべてを放ったらかしにして、あなたに迷惑をかけるようなことはしません。

 とすみれの「自殺」を否定します
 しかもずいぶん確信に満ちているようです。

 この、すみれの遺体が発見されないことと、ぼくの「迷惑をかけるようなことはしません」というセリフによって、すみれの「自殺」は否定されたわけです

捨てようとしたもの4「羊」

 最後は「羊」です。

 羊? と思う方もあるかもしれません。
 
 しかし”羊”も村上作品にはよく登場するモチーフです。

 「羊」といえば、『羊をめぐる冒険』、そして「羊男」がまっさきに浮かびます。

 羊男は、特に初期の村上作品に多く登場するキャラクターです。
(『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』、短編「図書館奇譚」や絵本『羊男のクリスマス』)

 山奥や、図書館の地下などいろんな場所に住み、羊と人間の要素を合わせたような見た目をしています。

 「羊博士」という似た人物が登場する作品もあります。

 村上作品で「羊」とくれば、「羊男」を連想しやすいです。

 『羊をめぐる冒険』では著者直筆の「羊男」のイラストが掲載されています。

『羊をめぐる冒険』の羊男

 では、『スプートニク』にの羊はどう描かれているかというと、
 
 すみれを探しながら、すみれが毎日通ったビーチに向かうぼく。

 その途中、数人の村人とすれ違い、「カリメエエ、、、ラ」と地元の挨拶をされます。

 このとき、「岩だらけの斜面を山羊や羊が気難しい顔をして歩きまわっていた」のを見かける場面があるのです。

 島の子どもや老人が世話している羊でした。

 注目したいのは、「カリメエエラ」のメエエの部分が、わざわざ点をつけて強調されていることです

 まさか、メエエという羊の鳴き声じゃあるまいな? と思ってしまうのです。

 「カリメエラ」とは”Calimera”、つまりギリシャ語で「おはよう」です。

 そしてやっぱり、「たしかにこんなところをすみれが一人でさまよい歩いているはずはない。身を隠す場所もないし、必ず誰かの目につくはずだ。」
 
 と否定するのです。

過去のモチーフを排除した結果、出てきた子供

 これまで見てきた「エレベーター」、「井戸」、「自殺」、「羊」は、村上作品で物語を先へ先へと進めてきたモノたちです。

 それらを否定し、物語から”捨てた“結果、『スプートニク』ではどうなったか。

 これが「にんじん」の登場に繋がったのです。

 村上本人は、にんじんのことを「試行錯誤」した結果出てきたキャラクターだとインタビューで述べています。

 すみれが失踪し、ぼくとミュウの「関係性の中で煮詰まって追われてる感じで話が進んで」おり、「そのまま話を終えたらどこにも行かないような気がしていた。閉じられたままで終わってしまうみたい」だったそうです。

それは、「エレベーター」、「井戸」、「自殺」、「羊」、という今までの作品で使い慣れた道具を”捨てた”ためなのでは? 

 これまでなら
 「エレベーター」の中や、
 「井戸」の底、
 「自殺」、
 羊(男)との出会いによって、
その先へとストーリーが発展させてきました。

 しかし、いつものパターンを排除した結果、試行錯誤が必要になったのです。

 「この島のどこに、彼女の行くべき場所があるのだ?」という壁に「ぼく」があたってしまうのもむりありません。

 それでいて、「井戸のような深い場所に落ちて、そこでひとりぼっちで救助を待っている」という過去作のようなイメージを拭えていな記述もあります。

 しかし、すみれは「井戸」にも「エレベーター」にも「自殺」しても羊の場所にもいない。

 よってぼくは「思い切って」、
 すみれが「あちら側」という場所に行って「あちら側のミュウ」に会えた
 という「仮説」を出すしかなかったのです。

 ぼくは「仮説」を組み立てる過程で、すみれがどのようにして、「あちら側」へ行ったのか何度も想像しています。

 一度目は、「1」の章。
 ぼくが語った「中国の門の話」を引き合いに、「どこかで犬の喉を切」ったことで、すみれは「どこか」へ行ったのだ、と想像しています。
 しかし、その「どこか」がわからず、この「仮説」では「先に進めない」。物語は展開しない。

 二度目は、「鏡を抜けて、すみれはあちら側へ行ってしまったのだ」という仮説を立てます。

 この「鏡」というイメージは、観覧車事件において「一枚の鏡を隔てて分割されてしまった」、「あちら」と「こちら」のミュウからきています。

 そして、「あちら側のミュウ」はこちら側のミュウとはちがって「性欲」を持ち、すみれの気持ちを受け入れてくれるミュウだそうです。

 この部分を見ると、本作の「あちら側」と「こちら側」は「鏡」によって隔たれているかのようにも思え
 実際、「すみれは鏡を抜け、「あちら側」へ」行ったと読むこともできます。

 しかしその後、再び「どうやったらそこに行けるのだ?」とぼくは行き詰まります。
 よってこの「仮説」も「振り出しに戻」っています。

 そして、今度ぼくが「もう一度〈仮説〉に立ち戻っ」た時、「鏡」だった「あちら側」と「こちら側」をつなぐもののイメージは「ドア」へと変化していくのです。


すみれはどこかにそのドアを見つけ、手をのばしてノブをまわし、そのままあっさりと外に出ていったのだ――こちら側から、あちら側に。

 ここまでで、
 ぼくはすみれが「あちら側」に行った方法を「犬の喉を切る」、「鏡」、「ドア」と3通りの仮説を立てています。

 ただそこに確証はなく、あくまでもぼくの仮説です。
 つまり作者が物語をどうやって展開させようか試行錯誤しているのです。

 なので、どれだけ仮説を立てても、その先にある「あちら側」には「どんな光景があったのかぼくには想像がつかない」のです。

 結局残されたのは、すみれは「あちら側」という場所に行き、「もう戻ってこない」という結論だけ

 物語は”閉じられたまま”。

まとめ

 物語と物語をつなげていたモノを捨てる。
 これによって、ぼくとミュウの間でその先の展開を得られないまま物語が閉じられる。

 それは村上が言った「何をうまく捨てることができ」るのかという試みと、その結果のように感じられる。

 その「閉じられた」状態で浮かび上がってきたが、「にんじん」なのではないだろうか。

 ながくなったので、
 にんじんの役割についてはつづきへ
 →村上春樹『スプートニックの恋人』にんじんと犬/交代する主人公【考察】

参考文献

柘植光彦「あふれるメディウムたち――メディウムリスト」
深津謙一郎「しのびよる〈暴力〉の影――村上春樹分身リスト」
(「[国文学解釈と鑑賞]別冊 村上春樹 テーマ・装置・キャラクター」)
加藤典洋『イエローページ3』

コメント

タイトルとURLをコピーしました