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【考察】あいみょん「生きていたんだよな」の歌詞にはモデルがある?~元となった事件とのはざまに

カルチャー

序文

【考察】「生きていたんだよな」 生きていたんだよな – Wikipedia
2016年発売のあいみょんメジャー1stシングル。ドラマ『吉祥寺だけが住みたい街ですか?』のオープニングテーマとして、初のドラマのタイアップ曲になっている、らしい。

以下、YouTubeに投稿されている公式MV。

ぼくはこっちの弾き語りバージョンの方が好き。

ちなみに例(こないだぼくが書いた記事「パンクへの愛を歌った名曲「リンダリンダ」:歌詞考察~決して負けない強い力とは」)によって、同じように詳細に解説している記事を見つけたので、もうそっちで良いんじゃない? とも思われるため、そちらを貼り付けておく。

よろしければ、参照してください。↓
あいみょん「生きていたんだよな」の歌詞の意味がドラマ主題歌としては衝撃的すぎ!?MVあり – 音楽メディアOTOKAKE(オトカケ)

ただ、上の記事の内容をパクるというより、似たような解釈をしている部分と、そうではない、またはその記事には書かれていないことも少し踏み込んで解釈してみたいと思うので、徒然なるままに綴ってみる。

安定の信頼と不確かさのWikipedia先生によると、この曲はポエトリーリーディングを取り入れている、らしい。

要は、「二日前~」以降の部分Aメロの部分が、およそ歌を歌うのではなく、まるで詩を読むように、音読するように歌唱されている、ということだろう。

ここらへんは、吉田拓郎(および吉田拓郎が影響を受けたボブ・ディラン)の影響ということなのだろうが、そういう音楽的・音楽史的な話に深入りできるほど知識があるわけではないので、ここでは書かない。

冒頭の歌詞 元の事件

まずは歌詞冒頭部分、

二日前このへんで
飛び降り自殺した人のニュースが流れてきた

血まみれセーラー 濡れ衣センコー
たちまちここらはネットの餌食

2日前に飛び降り自殺した人のニュースを見る。
自殺したのは、セーラー服という点から、おそらく女子中学生か女子高生。
高い所から飛び降りたために、セーラー服は血まみれ。

濡れ衣センコーというのは、その女子生徒の担任か関係のあった先生が、(ここらはネットの餌食というのだから、おそらくネット上での)憶測によって、濡れ衣=「女子学生を自殺においこんだという疑い」を持たれているのだろう。

ちなみに、この歌の生まれる元となった実際の事件があるらしい。

以下、インタビューの引用。

「歌詞にある通り、2日前に観たニュースの話です。ニュースを観た瞬間に曲にしようと思ったわけではなくて、2日間経っても頭に残っていたことを自然と歌詞にしていました。ポジティブでもネガティブでもなく、野次馬を批判しているわけでも、死を否定しているわけでもなく、人によってさまざまな聴き方ができる曲だと思います。できれば生きてほしいと、私も思っています。でも、他の人の人生を決め付けることも、“気持ちが分かる”とも言えないんですよね」 

(「【あいみょん】命を題材にした曲だからこそ、分かったようなことは歌いたくなかった | OKMusic」(2016年11月23日)より抜粋。)

また、別の取材では、

あいみょん:私もまったくネガティブな曲ではないと思っています。人それぞれ色んな生き方があるからこそ、こういう道を選ぶ人もいる。精一杯生きる方法っていうのはそれぞれなので、曲で描いた子はこういう道だったんだと思っていて。もう一方で、年始早々目にしたのでもちろんショックは受けました。この曲は、死を選んだ人、それを目撃した野次馬、そのニュースをテレビで観た人、どの当事者も第一人称には置いてないんです。

(「【インタビュー】メジャーデビュー曲も鮮烈なあいみょん、“生と死”を歌う理由を明かす | BARKS」(2016年11月23日)より抜粋)

 そして、作成の時期については、一つ前に引用した記事で

ありがとうございます。私は今年の2月に上京したんですけど、これは実家で最後に書いた曲です。この曲みたいに、語りからメロディーに入るというのは今までになかったんですよ。“そういうのも面白いかもね”というアドバイスをスタッフさんからいただいていて、それを頭に置きつつ作っていきました。

【あいみょん】命を題材にした曲だからこそ、分かったようなことは歌いたくなかった | OKMusic」(2016年11月23日)より抜粋。

と、2016年の記事で「今年の二月に上京」したあいみょんが「年始早々目にした」ニュースに抱いた感情を元に作られた歌だとわかります。

興味本位で、2016年初頭に同様の自殺者がいたのか検索してみると、以下の記事を見つけました。

毎日新聞の記事。

8日午前11時40分ごろ、大阪市中央区心斎橋筋1の心斎橋筋商店街で、「人がアーケード上に落ちてきた」と通行人から110番があった。大阪府警南署などによると、府内の公立高校2年の女子生徒(17)が死亡していた。西側に隣接する大丸心斎橋店の北館屋上から女子生徒とみられる(以下略)

飛び降り自殺:女子高生、屋上に遺書? 大阪・心斎橋筋 – 毎日新聞」より抜粋。

 あいみょんが見たニュースというのがこの方のものなのか確証はないが、時期や年齢、あいみょんの出身地に近い、現場の状況などの類似は認められる。

breaking-news.jp

 上の記事によるまとめにはこの事件に対するtwitterやコメント欄へ書き込みが残っている。

 出過ぎたことかもしれないが、歌は、こういったリアルと作品のあいだにあるものによって、人の心を揺さぶるのだと思う。

 ご冥福をお祈り申し上げます。

危ないですから離れてください

 歌詞の考察を続ける。

「危ないですから離れてください」
そのセリフが集合の合図なのにな

おそらく警察官が言ったセリフだろう。しかし、そのセリフによってなんだなんだと野次馬が集まってくる。

馬鹿騒ぎした奴らがアホみたいに撮りまくった
冷たいアスファルトに流れるあの血の何とも言えない
赤さが綺麗で綺麗で

野次馬たちがパシャパシャと写真を撮る。
自殺した子の血がアスファルトに流れる。
血というのは身体を流れているときは温かいものだ、それが冷たいアスファルトに流れるという対比的な歌詞。

そして、その赤さが「綺麗」と思う。

泣いてしまったんだ
泣いてしまったんだ
何にも知らないブラウン管の外側で

「赤さが綺麗」なことで、「泣いてしまう」あいみょん。けれど、自分はその自殺した子については「何も知らない」。
ブラウン管というのはブラウン管テレビのことで、昔のテレビのこと。
ただテレビの外側で(テレビを通してニュースを見ているだけで)、自分は何も知らない。

けれど、歌詞はぐっとその子の心のうちへ踏み込んでいく。

生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな 
最後のサヨナラは他の誰でもなく
自分に叫んだんだろ 

ただ、自殺した子がかわいそうとか、痛ましいとか思うのでははなく、生きていたんだよな、と呼びかける。

2番

彼女が最後に流した涙
生きた証の赤い血は
何も知らない大人たちに二秒で拭き取られてしまう
立ち入り禁止の黄色いテープ
ドラマでしかみたことなーい」
そんな言葉が飛び交う中で
いま彼女はいったい何を思っているんだろう
遠くで 遠くで

赤い血を、彼女が生きていた証であるととらえ、流れ出した血を「彼女が最後に流した涙」だとたとえている。

けれど、大人たちは現場を元に戻すため、すぐにふき取って何もなかったようにしてしまう。
そこで何があったかには関心なく、刑事ドラマに出てくるような黄色いテープを見て興奮する野次馬。
その大人や野次馬たちを見て、この世ではないどこか「遠く」に行ってしまった彼女は何を思っているだろう。

そう思いをはせるあいみょんは、

泣きたくなったんだ
泣きたくなったんだ
長いはずの一日がもう暮れる

泣きたくなったんだ、と歌う。
事実、泣いてしまったのかもしれない。
少なくともその子のことを考えていて、長いと思っていた一日がもう暮れてしまうのだ。

これは、あいみょんの状況を描いているのかもしれないが、その泣いていたら一日が暮れてしまう、というのは自殺前の彼女の状況を追体験しているともいえる。

「泣きたくなったんだ 泣きたくなったんだ 長いはずの一日がもう暮れる」というのは、辛い状況の彼女の気持ちとも合わさるのだ。

そして、サビ。

大サビ

生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
新しい何かが始まる時
消えたくなっちゃうのかな

「新しい何か」とは何だろう。
時期を考えると、新学期だろうか。

大人になってしまうと、新学期が始まる時の辛さを忘れてしまっている。
しかもこの子には、単純に学校に行くのがだるい以上の事情があったかもしれない。

新しい一歩を踏み出す時には大変な勇気いる、辛いとき誰かに助けを求めるのにも大変な勇気を必要とする人がいる。
そして、そういう勇気が出ない人が少なからずいる。
そういう人の弱さに、この歌は寄り添っている。

「今ある命を精一杯生きなさい」なんて
綺麗事だな。
精一杯勇気を振り絞って彼女は空を飛んだ
鳥になって 雲をつかんで
風になって 遥遠くへ
希望を抱いて飛んだ

その自殺してしまった子の、自殺する瞬間の気持ちはわからない。
解放された気分かもしれないし、やはり怖かったかもしれない。

けれど、あいみょんは、「精一杯勇気を振り絞って」「空を飛んだ」と、歌う。

「鳥」や「 雲」、「風」と歌われた時、それまで「冷たいアスファルト」や「ブラウン管」や「立ち入り禁止の黄色いテープ」という人工的で縛られているようなイメージから解放されて、自由に飛び回るさまを想像する。

彼女の身体は、落ちてしまったが、彼女の心そのものは、空を飛んで、はるか遠くへいるのだ。

これは、自殺そのものを肯定しているのではない。
彼女を肯定しているのだ。

大人の言う「今ある命を精一杯生きなさい」というのは、自殺をすでにしてしまった人にとっては、ただの「綺麗事」にしか過ぎない。

「生きろ」というこれまで何度も繰り返されてきたメッセージは、すでに死んでしまった彼女の「勇気」を否定するばかりになってしまう。

そんな言ってもしょうがない「綺麗事」を排除して、「希望を抱いて飛んだ」と彼女の気持ちを肯定するのだ。

だから、

  生きて生きて生きて生きて生きて
  生きて生きて生きていたんだよな
  新しい何かが始まる時
  消えたくなっちゃうのかな

「生きていたんだよな」と確かに生きていた彼女を肯定し、「消えたくなっちゃうのかな」と彼女の気持ちも肯定する。

生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
最後のサヨナラは他の誰でもなく
自分に叫んだんだろう

サヨナラ サヨナラ

辛い状況にある自分に彼女は勇気をもって、「サヨナラ」する。そして、希望の空へ飛んでいく。

歌詞考察まとめ

一見すれば、自殺を肯定しているともとれるこの歌、しかしこの歌は、どうしようもない「自殺した」という状況を少しでも肯定的にとらえるための歌だ。

それは自殺の肯定ではなく、自殺してしまった子に心情を寄せて悲しくなってしまう人々へのメッセージなのだ。

悲しいニュースを見る度「ブラウン管の外側」から見て、つらい気持ちになるばかりの人々。
そういう誰しもある悲しみにこの歌は寄り添い、少しでも彼女を肯定する事で、ニュースを見る我々の気持ちを少しでも軽くしてくれるのではないだろうか。

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